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にくにく

 投稿者:秋丸信夫  投稿日:2018年 4月 7日(土)04時26分1秒
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  「憎々く」しいでなくてよかったです。今気が付いたのですが、発信が始まったのが2000年2月25日ですから20年過ぎたわけです。定年から20年、80歳になるわけです。アクセス数30万件まで頑張ります。  
 

えびの便り「アクセス回数」

 投稿者:S.Fushima  投稿日:2018年 4月 6日(金)19時32分38秒
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   先程、アクセス回数が「292929」と並びの良い数字でした!!
もうじき、記念すべき「30万回」アクセス回数です・・・!?
「えびの原人」さん、これからも、益々、頑張ってください!!
 

ごうチャン様(新聞配達)

 投稿者:しげちゃん  投稿日:2018年 3月20日(火)21時49分14秒
返信・引用
  ごうチャン様
えびの地震の時は飯野駅近くに新聞屋があり、毎朝6時頃の一番汽車(SL)で持ってきた新聞を仕分けし、各自受け持ち分の新聞に公告を入れて配っていました。中学2年か3年の時に宮崎日日新聞の配達が独立したのをきっかけに、配達数の多い(儲けのいい)宮崎日日新聞の配達に変わりました。引き留めもあったのですが家の近くが宮崎日日新聞の新聞屋さん(山形さん?だったと思います)だったので、その時から宮崎日日新聞専門で配達しました。たしかに集金までしましたが、その分もアルバイト代に反映されてましたので喜んで集金していました。
今思えば、新聞配達のときの苦労や経験が、会社生活での苦労も我慢でき無事に定年まで働けたような気がします。
そうですか。ごうチャンさんも新聞少年だったのですね。親しみを感じます。
 

えびの原人様

 投稿者:ごうチャン  投稿日:2018年 3月17日(土)12時59分32秒
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  秋丸 信夫様、御悔み有難うございます。
石澤先生がかかりつけとは、なんかの縁でしょうか、亡くなった母も近いので、かかりつけ医院でした。また、石澤先生の前の医院(名前を忘れました。)もかかりつけでした。母の本通夜には、石澤先生の代理として、看護士3名着て頂き、会場で一緒に涙致しました。また、民生委員さん等の沢山の地元方々様が仮通夜、本通夜に参列していただきました。不幸な死に方でありましたが、皆さまに愛されていたと思えば、幸せな一人生活だった思います。そんな母親を尊敬致します。これから、裁判の方向となりそうですが、石澤先生と四十九日法事時にお会いした時に「裁判時に朝早いゴミ出しだったので、痴ほうにかかっていたのでは・・と言うことになったら、私が(石澤先生)痴ほうでは無かったことを証明しますから・・」と言って下さいました。有り難いことです。話がだいぶん長くなりまし。申し訳御座いません。新燃岳の噴火が少しでも早く、治まることことを祈っています。
 しげちゃんさんもお孫さんがいる、御爺ちゃんなったんですね。
えびの地震の時は、新聞配達されていたのですね。私も中学1年~3年の夏休みまで新聞を配達していました。もしかして、「宮﨑日日新聞」ですか?、あの当時は、集金までしていました。
 長くなりました、皆さま身体、御自愛下さい。
 

新燃岳の噴煙

 投稿者:S.Fushima  投稿日:2018年 3月11日(日)01時24分13秒
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  ※3月9日(金)に大明司の親戚、従妹が自宅で撮影した写真を投稿します...!!  

えびの地震

 投稿者:しげちゃん  投稿日:2018年 3月 6日(火)17時48分15秒
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  本当に久しぶりの投稿になります。
完全に定年し、毎日が日曜日で同居の孫(4歳と1歳)に遊んでもらうのが楽しみの爺さんになりました。
えびの地震の時は中学一年で、新聞配達をしていたときでした。揺れで路地の両サイドの杉の木に積もっていた雪がバサーと落ちてきてメガネは飛び、新聞はびしょ濡れになった記憶があります。大した積雪ではなかったのに偶々通った場所が悪かったようです。私は飯野だったので京町よりも格段に被害は少なかったのですが、余震も多く怖くて眠れなかったことを思い出します。
今は兵庫県に住んでいますが、近い将来必ず発生するという東南海地震が心配です。それまでに予知の精度が上がることを望みます。
 

【再】えびの地震について

 投稿者:S.Fushima  投稿日:2018年 3月 5日(月)18時20分53秒
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   当時の様子を以下の通り、叔母より連絡が入りましたので掲載致します。

「えびの地震の時は、両親と一つ上の姉、私、4人家族でした。
当地、大明司近辺は、大した被害はありませんでした。しかし、当店は、高価なウイスキー等が破損し、翌日網を張って防御しました。電池やラーメン、食品等買い求めるお客様が多く、恐怖感も忘れて販売に夢中でした。
 真幸地区は、家の倒壊、橋、土砂崩れ等があり被害があり大変でした。京町の叔母二人も我が家に避難して一緒に生活しました。
 今は、懐かしく思い出しますが自然災害は戦争です、自然保護の大事さを痛感しています。」
 

ごうチャンへ

 投稿者:秋丸信夫  投稿日:2018年 3月 5日(月)15時14分49秒
返信・引用
  書き込みありがとう。昨年末に山麓線で死亡事故があったことは聞いていました。事故の近くの石澤循環器内科はかかりつけの医者で、事故のことが話題になていました。母上様だったのですね。お悔やみ申し上げます。  

えびの地震について

 投稿者:S.Fushima  投稿日:2018年 3月 5日(月)13時35分40秒
返信・引用
   私は、東京(目黒)で生まれ育ち、現在に至りますが、当時は、小学校4年生で、余り記憶にありませんが、飯野地区:大明司の親戚(母親の実家):祖父母、叔母が、「えびの地震」を体験しており、投稿します。
 えびの町での状況は、「真幸地区の被害」が多く、大明司の親戚(酒店)でも、もの凄い揺れを感じ、一部、商品の陳列が崩れたましたが、小規模の被害で免れたようです。
 私が、小学校1年生の頃、国道221号線は、未舗装で砂利道でしたが、5年生(昭和44年)の夏休みに遊びに行った時は、舗装されており、「車社会」になっていました。
 現在とは違い、「スーパーマーケット」、「コンビニエンスストア」等は全くなく、親戚のお店は、大繫盛で、ビール、焼酎の配達等で大忙しでした。また、宮崎交通のバスの本数も多く、大明司バス停で降りた多くのお客様がお店で買い物をされていました。
 時の流れは、はやいもので、私は、今年、還暦になります。先日、えびのへの訪問回数を調べたところ、なんと42回でした・・・!!
 私にとって、「えびの」は、「第二の故郷」です。今年のGWに、「私の還暦祝い」、「結婚25周年記念祝い」として、親戚の家へ遊びに行く予定になっおります。
 是非とも、「えびの原人さん」とお会いしたく、スケジュール調整をお願い致します。
 
 

えびの地震

 投稿者:ごうチャン  投稿日:2018年 3月 4日(日)16時50分15秒
返信・引用
  御久しぶりです。
原人寸言にえびの地震のことが記載されていたので、拝読させていただきました。
私が小学二年生の冬でえびのには珍しく、大雪だったことを思い出します。
その当時の家は古かったけど頑丈で、地震で揺れる時「ゆりかごじゃぁ」とおやじ言っていたことも思い出します。小学校も早く終わり、下校しましたが私たちは友達と遊んで遅く帰宅し、今は亡き、祖父、祖母を心配させました。
その、親父も今は亡き、御袋も昨年12月26日に山麓線でごみ出しの帰りに、事故にあって即死状態でありました。えびの地震は、すごい被害あったのですね。原人さんの書き込みがなかったら、一生わからないままでした。
 私は一人で住んでいた母親を亡くし、ふるさとがなくなりました。
でも、「えびの便り」は、拝見させていただきます。えびの原人、体お大事にした下さい。
 

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