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生きることの意味について
tarouさんへやっと書込ができました。
長い文になりました。すみません。読むのやになってしまいそうですね(^ー^)
8時間かかってしまった。
生きることの意味は、とっても難しい。
僕は、この問いに高校2年の時にとりつかれた。今から33年まえの事だ。思春期をすぎると、人間は本能のままに生きることは出来なくなり「意味」を考えるようになる。意味が解らない、又は見いだせないものについてはやる気が起きないのが常だ。もっとも、すべてに対して意味を見いだせる訳でもなく、意味が解らないまま行動し続けていくしかないこともあるけれど。
しかし、「意味」を見つける作業は人間にしか出来ないことであり、「意味」を納得すると、俄然、人間はやる気をだして、行動し始めるものだ。
そういうわけだから、高校2年の僕は、すべてについて、やる気をなくしてしまった。 死にたいとは思わなかったが、勉強や部活など、全く手につかなかった。ボーットするのが好きになった。心になにか穴が開いたような欠乏感がいつも僕の心を支配していた。 特に受験勉強が手につかなくなり、浪人を3年続けるはめになるのだが。
ところで、「意味」を見いだせない時は、やる気がなくなるものだと書いたが、人間とはうまく出来ていて、その解らない「意味」を探し出す作業は、無性にしたくなるものだ。「解らないことを解りたい」という探究心は、人間の本来持っている本能であるのだろう。
そういう意味では、この探求作業が人間が「生きていく意味」とも言えるだろう。
確かに私は、これが「生きていく意味」の一つだと思っている。探求の旅、それが生きて行くことだ。自分が見つけ出した問いかけの答え、それは明日解るかもしれない、10年かかるかもしれない、死ぬ直前に解ることもある。常に探求の旅をしているのだ。
ただ、この「生きていく意味」の探究作業を邪魔をするものがこの世には多い。その一番の悪者は、「受験勉強」や「学校のテスト」である。探求作業をやれば、テスト勉強の時間がさけない。そうすれば、点数は下がる。下がれば、志望校には入れない。ことになる。
試験勉強が、私たちの思考を邪魔しているのだ。だから、今の青年たちは考えようとしない。中学受験で有名な日能研は、子どもが、悩んだり、思考しだすとそれを解消するマニュアルがあることを10年前に知って愕然とした。「そういう悩みは、悩んでも仕方がないんだよ」と思わせるように仕向けていく対話のマニュアルだそうだ。そうしないと、3年間で(一年間かな?)、自分の背丈と同じだけの問題集をこなしていくことは出来ないからだ。
こういう問いの答えを見つけ出す勉強は、大学に入るまでは出来ないことになっている。 しかし、受験勉強の中で、その問いかけは忘れてしまっていて、大学に入った時は、入った安堵感と開放感で問いかけ自体をしなくなっている。
そのまま、「問いかける」ことを忘れないで大学に入った人はすごい。ラッキーだ。だが、そこで、待ち構えている第2の邪魔者がいる。それは、就職だ。3年から始まる就活。研究者になろうとしても、研究者で飯を食っていくことは狭き門だ。
そうして、いつの間にか多くの人間は流されていく人生を歩むようになるのだ。問題を起こさないように、人となるべく争わないように、何かあったら自分で処理して自分が我慢すればいいという風になるものだ。
そうすれば、今生きているこの自分は自分なのか他人なのかが解らなくなってしまう。「生きている」のか「生きさせられて」(受け身の命令形)なのかが解らなくなってしまう。
探求作業を行うということは。「本物」を見つけ出していくことに他ならない。
「生きることの意味?」という問いかけをする前に、もうすでに、私たちは生きている。この宇宙の中に存在している訳だ。だから、「生きることの意味?」という問いかけを持つということは「生きる意味は今ここには無くて、どこか別のところにあるのではないか?」という問いかけのことである。今のこの人生が充実しているのなら、そもそも、「生きることの意味」を問いかけることはしないだろう。
さて、ここで、「生きることの意味」について考えていくときに確認しておきたいことがある。
先ずは、「生きることを肯定するのか、否定するのか」
もう一つは、「生きる意味」を問うことは自分以外のものから見た、自分以外のものにとっての意味か? 自分自身に取ってのそれか?
この二つについて確認しておく。
まず、「生きることを肯定するか、否定するのか」ということについて。
私は、高校の時、生きていくことについて肯定することが出来なかった。なぜなら、最初の問いかけは
「宇宙の進化の法則は、ビックパーンから始まって今は膨張している。しばらくすると収縮期に入り、またビックパーンの火の玉に戻るのだ。だとすると、人間の活動は、いずれ、火の玉になってしまうのだから、なんの意味もないのではないのか。
いつかは人類は火の玉になってしまう。消滅する前提でなぜ、今生きていく意味が見いだせるというのだ。そこには虚しさだけがあるだけではないか?」
と言うものだったからである。苦しかったのを覚えている、叫びだしたい衝動にいつも突き上げられていた。
この問いには、高校の視聴覚に関する部署の専任講師の人によってある程度納得を得ることが出来た。(セーフだった( °- °))それは、
「人間は、だんだんに自然の法則を見つけ出している、まだまだ、解らないことは山ほどある。しかし、人間は少しずつその知識の量を多くして生き謎を解いている。だから、このビックパーンのことも研究してその原理がもっと解る時が来るかもしれない、そのときは、その法則を利用して、存続していく方法を見つけるかもしれないではないか」
と言うものだった。この言葉に、私は、生きることについて肯定しなければならないんだな。と納得したのだった。
人間の人間への問いかけは、生きていくことに対しては肯定しなければ、ならない。
存続していくために、どうすれば良いのか?という存在すること、存在し続けることを肯定するところからしか「生きることの意味」を問いかけることは成り立たない。
存在することを否定するのであればそれは、壊滅しかない。「生きる意味」を考えることはナンセンスとなる。
自殺者が年間3万人を超え続けている。「人間は、生き続けるんだ」という前提を崩してはいけないのだ。
では、次の確認だ。
他人に取ってか?自分に取ってか?という問いかけだ。
「生きることの意味」は、たとえば、母親に取って自分はどういう意味があるんだろう。友達に取って自分はどんな意味があるんだろうとか、飼っている犬に取って自分はどういう意味があるんだろうかというように自分意外のものに取っての「自分の存在する意味」がある。
もう一つ、「生きている実感が欲しいんだ」と言うように、生きているこの瞬間に充足感を得るために「どう生きたらいいんだろう」という自分にとっての「生きる意味」の問いかけがある。
どちらについて「生きる意味」を問いかけるのかをはっきりすることが必要だと思う。 じつは、両方とも必要なのだ。でも、別々に考えでみる必要がある。
まず、
自分意外に取っての「自分が生きている意味」について。
私達は、自分一人で生き続けることは出来ない。
人間は、集団で生きている。人間は、他の存在と切り離して存在することは出来ない。生まれるときは、自分一人で生まれることは出来ない。母と父の存在が必要だ。
だから人間が死ぬとき死ぬ決意をする時は、自分がこの世すなわちこの社会に取って必要でなくなったと自覚したときだ。
たとえば、すごい借金を抱えて、もう何もかも借金のかたに取られてしまうという自体になってしまった時。裸一貫になった時にも「あなたが必要だと」言ってくれる人が一人でもいたなら人間は生きて行くことが出来る。また、クラスの中でいじめられている。その時クラスのたった一人の友達が見方になってくれたなら生きていくことは出来る。
だから、人間は地球上の何かから必要とされていることが生きて行くことの絶対条件だ。 ここで、注意が必要だ。必要とされていることと、利用されていることとは全く違うのだということと、すべての人間に取って必要である存在ではいられないということだ。 ここでは、誰に取って必要とされていたいのかという自分の意志が必要だ。誰にもいい顔をして、誰にでも愛されたいと思うと、自分がなくなってしまう。期待に答えられないことがあるんだという自覚が必要だ。簡単にいえば二人の女性を同時に幸せにすることが出来ない。ということだ。一人の人の必要に答えるために生きると決意したとたんに、もう一人の人の必要に答えることは出来ない。しかし、確実にその一人の人から「ありがとう」という言葉が返って来るだろう。
そう、ここで、確認して置こう。必要とされているか、利用されているかを見極める言葉がある。必要とされている時は「ありがとう」という言葉をもらう。利用されている時は「良くやった」という言葉をもらうだろう。
学校のテストは、どんなにいい点を取っても「ありがとう」とは言ってもらえない。
勉強が嫌いになるのは解るだろう(^ー^)
では次に
自分に取っての生きる意味
自分に取って「自分が生きている意味」。
「意味」は、国語辞典を引くと「価値」と同じことだと出てくる。「自分に取っての自分の価値」ととらえると。
そこには、自分が目指すものという前提が必要だろう。
自分が目指すものがある。こうなりたいとか、こうしたいとか。そのことを実現するために必要な状態(能力や環境)に自分自分自身が到達しているのかという吟味が必要だ。
なっていなければ、そういう能力を身につけたり、環境を変える努力をするとかの行動が必要だ。
問題は、その目指すものが見つからないという状態の時だ。
お金持ちになりたい。とか、有名になりたいとか、色々あるだろうが自分が目指すものがない場合は、「生きる意味」は解らないだろう。
それが、問題だ。
それを考える時、手がかりになるのは先に考えた「自殺するときはどんな時か?」だ。人から必要とされなくなった時、死ぬと確認した。
だから、自分が生きる目的を考える時、目的が、人から必要とされなくなるような中身ではまずい。
たとえば、人をだますことが生きがいだとか、人を殺すことが目的だとか。すべて自分の思い通りになることが目的だとか。人の悪口ばかりいうことに生きがいを見つけるとかだ。
とすると、自分自身の目的は、自分を必要とする人のために生きて行くことと設定することが必要ではないだろうか?
必要とされる人に「ありがとう」と言ってもらえるために、自分を成長させ能力を磨き環境を変えていく。それが生きていく目的ではないだろうか?
とすると、今この現在の自分の能力をどう分析するかが問題になる。
簡単にいうと「何が出来るのか?」「自分の能力を必要としてくれる人間がいるだろうか?」ということだ。
たとえば、坂の下に車椅子に座っている老婆がいる。その老婆は、坂の上に行きたい、が行けない。その時、もし、自分に上り坂を50キロの老婆を乗せた車椅子を押す能力があれば、老婆の必要に答えることが出来る。そして、坂の上まで押していく。その時、老婆から心のこもった「ありがとう」の言葉がもらえるだろう。その時、きっと充足感がえられるだろう。
以前、死にたいと言って来た17歳の青年がいた。
その青年は、「僕は誰からも必要とされていないんです、生きている意味がないんです」と言った。
私は、とっさに「そんなことはないよ」と慰めの言葉を言おうとしたが、やめた。その代わりに「そうだね、必要とされていないね」と言った。
それは残念ながら事実だった。その時その子は誰からも必要とされていないのだった。自分が持っている能力を誰かのために使ってはいなかった。勉強をしたって「ありがとう」はもらえない。大人は、繰り返し、繰り返し、今日有意義なことをしたのか?自分のためだから勉強しなさいという。彼はエレベーターの前にたっていれば、目の不自由な人が来てその人のためにボタンを押してあげることが出来るだろうに、そういう行動はしない。していることは、これが出来る、あれが出来ると自慢話だけである。
それでは、生きている意味は見つけられない。
かれは、しばらくたってアルバイトをした。その中で、少しは生きる意味を見つけられたようだが。
ただ、ここで注意しておくが、今の世の中には、人を利用してやろうとしている人間が多くいるという事実だ。
アルバイトも、その経営者が本当にアルバイトを大切に思っているのなら、生きる意味も見つけられるだろうが、安い給料でこき使ってやろうとしているとそこでは、生きる意味よりは人間不信が芽生えてしまうな。
なぜだろう?とこれも考えて見なければならない。
生きている充足感ということについて。
「生きる意味」という問いかけでは無く「生きていく充足感」という問いかけもしてみよう。先程も使った時があるから、「意味」と「充足感」は切っても切れない関係である。
が、人間は、どんな時に充足感を持つのだろうという問いかけは必要だ。
言い換えると「人間らしい生き方とは?」としてもいいだろう。
そうすると、「働きかた」とか「自然」とか、「思いやり」とか「反差別」とか「平和」とか「自立」などというキーワードが出てくる。
その一つ一つを考察してみることが必要になって来るでしょう。
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